徳山医師会病院について

新病棟増築前後

  • 奥田 秋夫

オープンシステム総合病院徳山医師会病院が昭和53年11月1日、それまでの業績に対して第31回日本医師会設立記念医学大会の席上、日本医師会最高優功貰を授与されたことを先ず書いておかなければならない。
徳山医師会病院の代表としてその席に山崎事務長と出席した。
歴代病院長、会員、従業員の努力が酬われたのだなという感慨が胸を過った瞬間であった。

建設前後のいろいろの事が走馬燈のように思い出され、この表彰式へ参列されるに相応しい先生方を差し置いて、その時偶々病院長の職にあった自分がその代表として出席するという面映ゆさと気の重さを感じていた。医師会病院建設のために事務長として招かれて辛酸を舐め、今日という日を迎えた山崎事務長の心中を思い乍ら、武見会長の前に立ったのである。

病院長就任以来今後の医師会病院をどう導いて行くかと考えた時に、完全オープンシステムはそのままつづけること、躍進をつづけて一応の成果を拳げて来た時であるので、今後の発展に資する準備期間であることを考え、特に新規事業は出来るだけ避けるようにすべきであると考え内部充実を目指したのである。

将来計画は概ね代々の病院長から引継がれたものであって、疾病予防までを考えた保健施設をも含めたセンターを東山の一角に建設する構想があった。

そのためには特に前病院長時代からの懸案であった隣接地の確保をすべきであると考えていたのである。

昭和53年後半辺りから入院患者数の増加があり、遂に入院待機患者が出始めた。又、54年5月13日から休日急病夜間療所が運営を始め、医師会病院も二次病院群の一翼を担うようになり、この当番に当った休日の入院患者受入れに病床不足を来し、総婦長から日常は勿論休日の前になると病床の確保に頭を悩ますという苦情を度々聞かされる状況となった。

よく問題になることの一つに医師会病院はどの程度の装備をすべきかということがある。日本の病院をみると一般的には外来診療をやり乍ら入院患者を収容している。医療がドンドン進歩して釆ているのにこの点は現在も明治時代の病院のやり方と変っていない。優秀な設備とスタッフをもっている基幹病院がハナカゼ患者、スリ傷患者を診なければやって行けないような制度の予盾というか、無駄というか不合理な現状である。基幹病院は二次患者以上を常時収容する制度にするような発想の転換をなぜしないのであろうか?又、一般病院がすべてとは云えぬが基幹病院並みの設備をねらいすぎるのではなかろうか?完全オープンシステムを目指して実践している徳山医師会病院にはそれなりの行き方がある筈である。

病院間の機能格差があって当然であり、夫々の持ち分を守ることが必要であると思うのである。これらの点から私自身は現在では重装備はすべきでないというのが持論である。病院長就任当初は何もしないつもりが、いろいろの状況から新病棟建設に踏み切る破目になった。今後も医師会病院開設当初のことを思いおこし乍ら対処しなければならない。時代の流れと共に昔と違って考え方も変って来ていて、その変り方の激しさに驚くが、我々が最低守らねばならない線は決してくずしてはならないと思うのである。