徳山医師会病院について

医師会病院創立前後

  • 千治松 弥太郎

昭和38年頃から、梅原会長を中心とする医師会内部から、博愛病院を我々の理想を盛り込んだ、完全オープンの形で設立しようではないかという機運が起こった。
「完全オープン」とは一体なにを目指すのか。先ず米国におけるオープン制の研究の基礎的な事柄から始めた。
米国の文献を翻訳したり、病院管理研究所から出版している資料などを建設委員会に配布し研究を重ねた。

オープン制とは

米国のオープン制とは、最初に病院があり、病院が自己に属する登録医を選定する権利を有する。従って、病院の性格が宗教立であっても、自治体立であっても、私的財団立であっても、すべて登録医たらんとする者は、自己を宣伝し、売り込み、競争までして登録してもらうのである。したがって、病院が経営面で優位を保ち得るか否かは、登録医の責任ではなく、理事者の経営手腕に係っているのである。徳山医師会のオープンシステムはどうであろうか?登録医は、徳山医師会の会員は全員登録されている。従って全員が同一の権利義務の条件下に、利用できる。他市の医師会員は利用できない。ここが米国型と違うところである。

医師会病院とは

一般社団法人の徳山医師会が経営する病院であるから、医師会の定款に基づき、医師会の目的及び事業の項、第2条の「本会は、医道の高揚、医学医術の発達普及と公衆衛生の向上を図り、社会福祉を増進することを目的とする理念の下に、会員独りひとりが経営者となって、事業の推進にあたらなければならない。」組織上、病院長(医師会長)を頂点として、運営委員会(運営会議)、理事会(経営会議)の議を経て諸事業が実施されている。病院が生きる(地域社会の医療のニーズに答え得る)か、死ぬ(地域医療に関する住民の信頼に応え得ぬ)かは、全会員の双肩に掛っていることを銘記し、衆知を集めた運営と、時には自己犠牲を払って奉仕する努力が要求される所以である。

オープンシステム総合病院医師会病院とは

総合病院とは、各科の医師が登録してあり、形としては各診療所に別れて診療しているが、病院に来診すれば対等の登録医であり、必要に応じては、対診形式で各科専門医の意見を聞き、診療がおこなわれているのだとの観点から、梅原病院長が提唱して名付けたものである。

場所の選定

病院であるから、相当広大な敷地を必要とすることは当然である。徳山市のほぼ中心に位置する東山の高台は、東西何れの位置に在住する主治医の来診にも支障の少ない、格好の場所であり、しかも天然の良港、波静かな徳山湾が一望の下に展けていて、遥かに瀬戸内の島々も遠望できる天下の絶景は、きっと入院患者の心身の快癒に資するに違いないと考えられた。
建設委員、博愛病院理事全員の立会いの下に、現在地に造成されることに決定したのは、昭和39年4月であった。御弓町の465坪と東山の1832坪の土地交換が、等価で円滑に行われたのは、極めて幸運であった。

病棟医(又は常勤医)について

開院当初の構想としては、内科病棟医、外科病棟医各1名を設置する。医大卒後少くとも4年程度の経験を有するベテランで、可成りのことは任せ得る人という条件で、山大に派遣を相談したのであるが、当時の教室の状況では、半年、1年契約で派遣することはとても出来ない。又医師住宅を確保せねばならず、夜間当直医はどうするかという問題もあった。
夜間は、病院利用の会員が輪番で当直し、土、日を山大の卒後1年程度又はインターンを雇傭することにして解決した。適当な病棟医を確保することが、当時出来なかったことが現在、自分の患者は入院から退院迄、会員が全責任を持って処理するという、所謂「完全オープン制」が維持される基礎となったのである。有能な常勤医がいればどうしても、主治医は患者を常勤医に任せきりにする傾向が生じ、次第に病院から足が遠のくことになる。特に最近の医学知識を身につけた優秀な常勤医と、卒後可成り年月を経た開業医が、一人の患者の処置について議論すれば、どうしても前者の意見に従う結果となったり、両者の人間関係の複雑さが表面に出て来る。
また、患者の指向する主治医像はどちらを求めるか、新しいトラブルを発生する恐れがある。米国の開業医が、病棟医を指導し教育しながら診療を行うという、米国式オープンの姿からは程遠い現実が日本では有るのである。
「徳山型オープン制」では、病状に疑問のある場合は会員相互間の対診によるグループ診療が行われることになり、X線フイルム、EKG、検査データー等を中心としての話し合いに依って、軌道修正を行うことが出来る。
更にコンサルタント技術陣の意見をも併せ参考にし、勤務医と開業医の両方の気分を味いつつ毎日じかに病院に足を運ぶことになるのである。患者のためには、とても都合の良い診療形態が取られていると云うべきである。更に病院は自分達のものであるという実存意識が徹底することになる。当初病棟医を採用しようと思っても、人が得られず、そのため会員が毎日病院に足を運んでくれたため、人件費が随分節約になった。その間、古山副院長が独りで病棟医の仕事を遂行して下さったが、大変な気苦労であったと想像される。改めて感謝する次第である。